「人と地球を幸せにするデザイン」
私は、東京で1972年から、アートディレクター、グラフィックデザイナーとして仕事をしています。1983年に独立し、水谷事務所としてデザインと広告を中心に、今ではMERRY PROJECTというコミュニケーションデザインまで行なっています。ちょうど日本の高度経済成長であった、バブル経済と重なり、とても忙しく、エキサイティングな時代でした。1991年からは、バブル崩壊となり、厳しい経済状況の中で仕事をしてきました。私達の仕事はそんな時代と社会の動きに一致します。20世紀末の東京に華開いた広告とグラフィックデザイン。 そして21世紀の今、それが終り、地球と社会と人を幸せにする、ソーシャルデザインが中心となる時代。この37年間の東京から見るデザインとアートディレクションの<デザイナーのポイント>、<デザイナーとしてのエピソード>、<デザインの経験>、そして<デザイン論>を伝えたいと思います。

<1.デザイナーのポイント>


1.一流のアートディレクターになるためには、「品性」「知性」「ものを引いてみる力」の3つが必要不可欠な三大要素。「ものを引いて見る力」とは、「どんな局面に立たされても、物事を客観的に見ることのできる力」であり、そういう力がある人は、アートディレクターに限らず、どんなビジネスにも成功します。
とにかく本物の、いいものに出来るだけたくさん触れることです。いい人に出会い、うまいものを食べ、いい音楽を聴き、いい映画を観て、展覧会に足繁く通って一流の人の作品を鑑賞し、たくさんの本を読んだりすることが大切です。特に若い頃は、展覧会に出掛けることと、自分で作品を作ることが大事です。そのためには、自分への投資を惜しんではいけません。


2.大切なことは、「時代」をどの様に鋭く切り取ってデザインしているか?社会的にどう捉えているかなど、デザインに対する社会性が強く求められます。また、「デザイナーの気持ち」がどの様にデザインされているかなど、デザインに対する素直な気持ちも大切。


3.そしてやはり、今まで誰も見たことのない新鮮な切り口、アイディアが重要。「アカデミック」と「エンターテイメント」この両者のバランスが大切です。やはりデザインは、絵画性が高く、美しく、「楽しく」なければいけません。


4.特に日本国内では、クオリティの高い技術で評価されますが、 海外ではわかりやすい、コミュニケーション出来る作品が高い評価を受けます。やはりデザインは、コミュニケーションが重要です。


5.寝食も忘れてひたすらにポスターを作り、コンペに参加していた。そのことが私にポスターに対して深い愛情を抱かせることになりました。作り続けていれば、誰かが見てくれて、必ず花が開くものです。私は37年間も作り続けていますが、いまだに新しい時代に対して提案できないか、自分にはもっと新しいデザインを作る力があるのではないか、今までに見たこともないようなコンセプトデザインがあるのではないか、と思って挑戦し続けているわけです。そういう意味では、精神的にも、肉体的にもタフでないといけないし、生涯現役で作り続けるぞという気迫を持ち続けることも大事だと思います。







ワコールポスター

<2.デザイナーとしてのエピソード>


1.アートディレクターとしての出発点

 日本デザインセンター入社後に手掛けたワコールの仕事がアートディレクターとしての出発点となりましたが、この出発点を語る上で、田中一光さんとのエピソードは避けて通ることはできません。
 私は名古屋から上京後、夜間にデザインを学びながら、自ら志願して田中一光氏のもとでアルバイトを始めました。厳しい環境で失敗を繰り返しながらも、私は必死でした。しかし、ある日、田中氏は私を呼び出して、こう告げたのです。「君は自分のデザインのどこがいけないかわかるかね。君はもっと良い物を見ないとダメだ。そうするうちに、良い物とは何かがわかってくる。とりあえず、明日からデザインやめなさい」
 厳しい現実に、ただ従うしかありませんでした。そして、私は考えました。当時、街には、田中氏のポスターが溢れていた。街に出て勉強すればいい。私は迷いながらも気持ちを切り替えた。その迷いを後押ししたのは、田中氏のデザインから学び取ったある確信でした。品性と知性、そして引いて物を見る目。田中氏が大切にしていたのはこの3つでした。この確信には理由がありました。当時事務所の掃除係だった私は、田中氏のデスク脇のゴミを持ち帰ってはそのデザインを分析し、研究を重ねました。執念ともとれるこの姿勢は、私のアートディレクター人生を形作るきっかけとなりました。


 東京に出てきて5年間は、今でいうデザイン業界のアルバイトをしていました。その後、永井一正さんの紹介で日本デザインセンター(NDC)で働いていました。当時は「ワコールカレンダー」の仕事がやりたくて、仕方がありませんでした。社内には女性向けのオシャレな仕事が少なかったのですが、どうしても担当になりたくて3、4年は「やりたい」と言い続けていました。
 日本デザインセンター入社後の私を待ち構えていたのは、計250名の在籍デザイナーたちでした。自分の望みを実現させるためには、250番目に甘んじているわけにはいきませんでした。
 その数年後、私は念願のワコールの仕事を勝ち取ることになりました。当時、ワコールの仕事といえば、時代の先端をいく、花形の仕事。コンペの応募総数は150を越えていました。
 その後、「ワコールカレンダー」の社内コンペに自主プレゼントして参加。すると見事に勝ち抜いて、私の作品が選ばれました。オペークインクで版画の様に印刷するという私のアイデアは、最終的に制作プロダクションや広告代理店の約150案の中から採用されたのです。周囲の人々はこのアイデアに非常に驚いていました。時を同じくして母が他界し、家庭的な問題も重なった時期でした。苦境の中選ばれて嬉しかったです。大袈裟ですが運命的な何かを感じた瞬間でした。私はこれ以前にもオペークインクを使用したポスターを制作していましたが、「ワコールカレンダー」にはその時の技術が活かされています。1982年、最初のカレンダーは現代的なエロティシズムを表現するために、影の無いフラットな撮影をして、トレーシングペーパーをかけるように白いオペークインクを全面に引きました。


 それまでチャレンジしていたデザインが、ここで実を結びました。「弱さの強さ」が表現できました。駅や町中で目にするポスターはカラフルで、にぎやかなものが多かった。その中で、白くてふわっとした作品があると「弱い」のですが、それが逆に「強い」のです。  この仕事で数々の賞を受賞、脚光を浴びることになりました。「どうしてもこの仕事がやりたい」という、執念ともいえる気持ちで突き進んだ結果、道を切り開くことができたのです。  時はバブル目前。私はその後もふつふつと沸き上がる時代と並走するように、仕事に没頭し、多くの壁を突き破っていったのです。







Swatchポスター



ANA's China


2.20世紀末、東京のデザイン
 独立後、航空会社の企業広告の依頼をきっかけに、デザインへの考え方が変わっていきました。バブルの真っ最中、巨額の広告費や接待費が浪費されるのを目の当たりにし、ふと疑問に思いました。日本ではバブルで華やかなことにお金が消費されていく一方で、世界では湾岸戦争が始まりました。僕の父は戦争で耳を悪くしていたので、幼いころの私はそんな父の手助けをしていました。だからデザインを通して世の中を幸せにしようと思ったのに、今していることは何だろうと愕然としました。
 そして仕事のスタイルを、少しずつ変えることにしました。







Come Together for Kobe



The 200th anniversary of SHARAKU


 その後は、より社会的な仕事を積極的に増やしました。毎日新聞社主催の「写楽200周年」展のポスターを手掛けたほか、1997年の阪神淡路大震災の風景写真を使ったポスター「COME TOGETHER for KOBE」は無償で駅に貼らせてもらい、集まったお金を全て神戸に寄付するという活動をおこなった。こうして社会的な活動を続けていくうちに、私は新たなテーマに取り組むことを決心しました。

<3.デザインの経験>
 私は、日本で37年間、アートディレクター、グラフィックデザイナーとして仕事をしています。この仕事は、とても楽しく、素晴らしい仕事です。 
 これまで私は、ワルシャワポスタービエンナーレ 金賞、コロラドポスター展最高賞、NY ADC 金賞・銀賞など、数多くの賞をいただきました。私が20代の時は、とにかく数多くの海外コンペディションに出品しました。給料が7万円の時に100万でポスターを作り、出品しました。それがワルシャワポスタービエンナーレ展で特別賞をいただき、日本一のデザイン会社、日本デザインセンター(NDC)に入るきっかけとなり、自分にとってステップアップとなりました。コンペディションは自分の力を試す、良い機会です。どんどんチャレンジしてください。

1.社会と密接に関わりあう広告
 80年代後半、日本は沸いていた。バブル経済という波の中で、日本人は浮かれていた。もちろん私を取り巻く状況も例外ではありませんでした。
ハリウッドスターを招き、海外でロケを行い、その制作費に億単位のお金が平気で動く時代だった。すでに独立していた私は、寝食も放棄し、来る日も来る日も仕事に明け暮れました。そんな壮大なスケールの仕事を膨大にこなす中、私の心は疲弊していきました。
 お金はたくさんもらいましたが、それは何の喜びにも繋がりませんでした。こんなことをしていては日本が良い方向にいくわけがないと思いました。そのころ頭に浮かんでいたのは、自分がグラフィックデザインを志したきっかけ、物を作ることで、世の中を良くしたいという自身の原点でした。
私はその後、すべてを一旦ゼロに戻し、事務所を縮小しました。
 90年代に入り、私は社会や文化、環境をテーマにした広告を作り始めました。社会と向き合い、デザインを通して思いを伝えたいと考えていました。
それは時代的にも必然の流れでした。バブルが崩壊して、日本人はすごく考えました。広告も、宣伝すれば良いということではなく、虚ではなく真実、リアリティを求めていく時代になったのです。もちろん社会や経済だけじゃなく、地球環境や自然災害、戦争とか世の中のいろいろな現象がデザインには関わってくる。アートディレクターは、そういう時代の空気を読み取る力を当然持っているし、今のリアルな呼吸をデザインしないといけないと考えるようになりました。
 もちろんファッション広告にも同じことが言えた。これまでのモデルが服を着ているだけの広告ではなく、時代を掴み、その空気を表現すること。一連のINFASパブリケーションズの広告は、自身が周辺を改めて見直し、すでに持っていた素材や身近なもの、場所を使って作り上げたものです。そこには、時代の空気や人の呼吸が間違いなく存在していた。

2.リアリティを求めて
 今、私が求めているファッション広告のモデルは、その表情や佇まい、歩み1つにしても、しっくりと目になじむ人。話していても素敵だな、と思う人。仕事を頑張っていたり、ちゃんと生きている人。そういう人に服を着させたいと思うのです。人の生き様と服との関係が見えれば見えるほど、その服はリアルに映るし、その人間が持つ生命感や服を着る喜びみたいなもの、そういうリアリティを大事にしたいと感じました。
 プロのモデルを起用する場合でも、モデル自身の生き様や、バックボーンを重視します。それがフォトジェニックということです。本物のクリエイティブをやろうと思うなら、そういう部分まで問わなければならない。消費者も、そこまで見抜く力をいよいよ持ち始めています。

3.時代をアートディレクションする力とそこにある気持ち
 大切なのは時代を引いて見る目、世の中を分析し、マーケティングする力。それがアートディレクションには必要です。デザイナーは表現者ですが、昔やっていたことをただなぞるのではなくて、時代とともに変わっていかないといけない。ただ美しいファッションを作りたいと思っていた時期もありましたが、今は生き生きとした生命感を広告にしたいと気持ちが変わってきました。更に言えば、ファッションと環境は密接に関わっているんだから、これからは環境のこともちゃんと考えていかないといけません。結局は、自分がどのようにその時代を生きて、どのように感じ、どのように作っていくかなのです。忘れてはならないのは、そこに自分の気持ちがちゃんとあるのかということ。その気持ちをデザインしないと、人は見抜いてくれないし、見向きもしてくれない。そこがグラフィックデザインの面白いところなのです。

4.人と社会を幸せにするデザイン
 世界的な株の暴落や食の安全性に関する事件など、社会の大きな動きが次々と起こった。そうした社会の問題をきちんと見据えた上で、社会や企業とデザインとの関係を考え、どのような切り口で提案していくのかが今問われている。そうしたデザインの社会性を意識した取り組みが重要。グラフィックであれインダストリアルであれ、デザイナーの思いがその作品にいかに表現され、他者に伝わるかが非常に大切なことだ。どんな気持ちで、その作品に取り組んだのか、自分の気持ちを素直に表現してデザインして欲しいと思う。デザインとは何かと問えば、人を幸せにすること、社会を幸せにすること、そして地球を幸せにすることを目指すものだと考える。若い人々には、「人を幸せにするデザイン」をめざして大いに挑戦してもらいたい。

<4.デザイン論>

笑顔とコミュニケーションデザイン




Merry at Laforet 2000


 「あなたにとってMERRY(楽しいこと、幸せなとき、将来の夢など)とは何ですか?」私は世界各国を旅して、人々にそう尋ねています。すると、「夢は地球を明るくすること」、「平和が一番」など、それぞれの「MERRY」観が返ってきます。  世界の人々の笑顔を撮影し、その人たちに書いてもらった「あなたにとってMERRYなこと」の直筆のメッセージとともに世界へ発信。そして各地で展示しています。これが、1999年から継続しているコミュニケーションデザイン「MERRY PROJECT」です。  2008年に行われた北京オリンピックの開会式では、セレモニーのクライマックスで2008人のボランティアの少女たちが、五大陸の子どもたちの笑顔がプリントされている傘をいっせいに開くと、会場には世界中の子どもたちによるMERRYな笑顔の花が咲き、オリンピックのテーマ「1つの世界、1つの夢」をデザインしました。



北京オリンピック開幕式(2008年8月8日)